オレンジャーからの回答(6)

(読者様からのご質問)
罪と罰について教えてください。
罪に対しての罰とは、必ずあるものなのでしょうか?罪を感じない場合、罰はないのでしょうか?

(オレンジャーからの回答)
ご質問いただきありがとうございます。なかなか本質的な奥深い問いですね。

まず読者様の価値観や正義感などによって、いろいろと答えが変わる領域がありますので、一般的な観点からお答えさせていただきたいと思います。

「罪」とは、法律や道徳的な観点から見て、人が犯した違法行為や不道徳行為のことを指します。これらの行為は、社会的なルールや規範に反するものであり、その背景には、他者への損害をもたらす可能性または行為という考えがあります。人は皆が平和で幸せにという大義があり、その流れに背いていることを法的見地や道徳的見地に照らし合わせて、「罪」として定義されているのではないかと思います。
一方、「罰」とは、前述の「罪」を犯した者(犯罪者と呼びますね)がその行為によって受けるべき法的、社会的、または倫理的な制裁のことを指します。「罰」は、犯罪者に対する社会的な非難や警告の意味を持つとともに、被害者や社会全体への正義感を回復することを目的とする場合もあります。
「罰」には、刑務所や罰金などの法的な制裁だけでなく、社会的制裁や内面的な心の制裁もあります。社会的制裁とは、犯罪者に対する社会的な非難や抹殺を意味し、内面的な制裁とは、犯罪者自身が自己嫌悪や罪悪感を感じることで、自己の良心による制裁を受けることを指します。

「罪に対しての罰」という観点から見ると、必ずしも罪に対しての法的な罰があるわけではありません。例えば、犯罪が摘発されなかったり、法的手続きが不十分だったり、または犯罪が法律上の罪として認められていない場合などは、法的な罰が与えられないことがあります。また、法的な罰を受けずとも、社会的な非難や自己の良心による制裁など、他の形で罰を受けることがあるかもしれませんが、これもその当人の意識や価値観によるところが大きく、それらの罰を受けてもそれを罰と認識していない人も実際には存在しています。

法的に罪を犯しているかどうかは、その行為自体が違法であるかどうかによって決定されます。つまり、法的な罪には、個人の感情や主観的な評価は関係ありません。しかし、個人が犯した行為について罪悪感や良心の呵責を感じない場合でも、それが社会的に許容される行為でない限り、社会的な非難や制裁を受ける可能性があります。例えば、他の人の権利を侵害する行為を犯した場合、その行為は社会的に非難され、他者からの批判や反発を受ける可能性が高くなります。また、法的には罪に問われなかった場合でも、自己責任に基づく道徳的な判断によって、個人自身が自己嫌悪や罪悪感を感じることがあります。その場合、自己責任に基づいた内面的な制裁を受けることになるでしょう。ただし、社会的な非難や内面的な制裁は、法的な罰とは異なるものであり、法的な罪に対しては、必ずしも罰があるわけではないと先程お答えしたように、法的な観点から見ると、罪を感じないからといって、法的な罰が無いわけではありません。

法的な罰にしても、社会的&内面的な制裁にしても、それぞれの人が感じる主観的な要素が絡んでいて、罪を罪として感じるかどうか、またその罪によって様々な形式の罰を受けるかどうか(もしくは当人にその意識があるかどうか)も絶対的なものではありません。もともとこの社会を生き易くするために生み出した「法」「道徳」「慣習」といった様々な基準に照らして「罪」や「罰」が定義または意識されていますが、これらは全て人間が創り出した概念の世界の話でありますので、人の思考や意識の系の中で閉じているものです。動物が生きるために他の動物を殺す行為について、人は勝手に様々なストーリーを付与してそこに罪や罰を定義して考えることができますが、当の動物たちに罪や罰の意識が存在するかどうかはかなり疑わしいのではないかと思います。

少々論点が広がりすぎましたが、それぞれにとっての罪と罰ということを考えてみることは、自分の内側にある正義と悪の境目を観察するために役に立つことだと思いますので、ぜひ一度ご自身でも問いて見てください。

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