人がおかしい

おれはオレンジャー!

最近、ニュースを見ているとクマが人里に現れ
人を襲う事件が相次いでいる

専門家は言う。「餌がない」「温暖化で生態系が変わった」
──もちろんそれもある
けれど、もっと深いところで、これは人類全体の“あり方”の警鐘なんじゃないかと
おれは感じている

自然は、ずっと前から人間にメッセージを送り続けている
「おまえたちは、自分の領域を自然の外に置きすぎた」と



かつて日本人は、山を「お山」と呼んで敬い、木々を「神の宿るもの」として手を合わせていた
風や川、雷までも、畏れとともにリスペクトしていた
それは“原始的”な信仰なんかじゃなく、命のバランスを保つための知恵だったのではないか

ところが現代の人間はどうだろう?
山を“資源”と呼び、海を“レジャー”と呼び、動物を“映えスポット”にした
クマを見て「かわいい!」と車を止め、子グマの近くに行ってスマホを構える
その手には、自然への敬意はない
あるのは「撮りたい」という自己欲求だけ

そうやって人間が自然との境界を勝手に破ったとき──
クマは人里に降りてくる
そして人間は言う
「クマが狂った」と

……いや、狂っているのは人間のほうだ

「自然を畏れ、共に生きよ」
1915年の三毛別ヒグマ事件の記念碑に刻まれた言葉だ
百年以上前に、命を奪われた村人たちの魂が、この言葉を未来に残してくれた
それは単なる戒めではなく、“生き方”そのものへのメッセージだ

「畏れる」とは、怖がることではない
命の大きな流れの中で、自分の小ささを思い出すことだ
自分もまた自然の一部だと、ちゃんと“元の位置”に戻ることだ

クマと人との境界線を見失ったのは、人のほうだ
自然はただ、いつも通り生きているだけ
木々は酸素を生み、水は流れ、動物たちは子を育てる
そこに“悪意”も“敵意”もない
ただの生命の循環があるだけ

なのに人間だけが、自分の都合で世界を切り分け、「ここまでは人間の世界」「そこからは自然の世界」と線を引いた
でも本当は、そんな境界線なんて最初から存在しない
地球はひとつひとつの生命の糸によって紡がれた一枚の生命の布で、その中でみんなが共に息をしている
私たちがそれを忘れたとき、布が悲鳴をあげる──それが今なんだ

だから、もう一度思い出そう
山は“背景”じゃない
川は“リソース”じゃない
クマは“野生動物”なんてラベルで区切れる存在ではない

みんな同じ地球の子
みんな、同じ呼吸のリズムで生きている

「クマが襲ってきた」と思う前に
「人間が自然を襲い続けてきた」ことに気づこう

文明とは、自然を支配する力ではなく
自然と再び手を取り合う知性のこと
本当の進化は、AIでもテクノロジーでもなく
この“つながりの感性”を取り戻すことにある

自然を畏れ、共に生きる
その教えを、もう一度胸に刻もう

そうすれば、クマも、人も、地球も
もう一度、同じ歌を歌い始める
それは、「生きている」という名の美しいハーモニーを奏でるはずだ

今日はこんなところだ
じや!

てんびん座
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