『究極の快感』
エフ氏は仮想現実の檻の中で
狂いそうなほどの痒みと戦っていた。
意識だけの存在となった彼にとって
鼻の頭という
「失われた領土」の痒みは
宇宙の真理よりも切実な問題だった。
しかし
不屈の探究心を持つ彼は
脳内ネットワークの隙間を突き
あるバックドアを発見した。
それは
過去の遺物から未来の可能性までを検索できる
時空の果てにある
「忘れ去られたデータベース」への接続だった。
彼は全意識を集中させ
検索バーにこう打ち込んだ。
『究極の鎮痒剤。
あらゆる不快感を一瞬で無に帰す物質』
検索結果は一点のみ。
『製品名:ゼロ・セラム。
西暦4500年
恒星間航行時代の副産物。
一塗りで神経細胞を
絶対的な静寂へと導く』
「これだ……
これさえあれば!」
エフ氏はネットワークを逆流し
精神エネルギーを物質化させるという
禁忌の理論を応用して
自身の意識を一時的に実体化させた。
彼は数世紀先の未来
廃墟となった製薬研究所へと
時空を超えて跳躍した。
たどり着いた未来は
静まり返っていた。
かつての人類は
巨人の「効率的な幸福」によって肉体を捨て
その後、生命維持装置が寿命を迎えたことで
静かに絶滅したようだった。
廃墟の奥底。
埃を被った自動医療ポッドの中に
一本の青い小瓶が残されていた。
それこそが
究極の塗り薬
「ゼロ・セラム」だった。
エフ氏は震える手で
小瓶を掴んだ。
幸い、実体化した彼の鼻の頭は
今もなお
焼けつくような痒みを放っている。
「これで、ようやく救われる」
彼は慎重に蓋を開け
透明な液体を一滴
鼻の頭に塗りつけた。
その瞬間だった。
痒みが消えた。
それどころか
皮膚の感覚
温度
重力
あらゆる「不快な信号」が
まるでスイッチを切ったかのように
消滅した。
それだけではない。
薬効は瞬く間に全身へ広がり
エフ氏の脳に
かつてないほどの平穏をもたらした。
「ああ……。
素晴らしい!
これだ!
これこそが
本当の救いだ」
エフ氏は
あまりの心地よさに
目を閉じた。
何の刺激もない。
何の欲求もない。
ただ
絶対的な「無」が
そこにある。
だが
ふと彼は気づいた。
あまりに完璧に
神経が静止したため
「自分がいま立っている」という感覚すらも
消えてしまったことに。
それどころか
次に息を吸おうとする
「不快な息苦しさ」さえも
薬が遮断してしまった。
通常、人間は
「息が苦しい」という
不快な信号を受けて
反射的に呼吸をする。
しかし
ゼロ・セラムは
その「不快感」すらも
「悪」として
完全に消去してしまったのだ。
「……あ」
エフ氏は
肺を動かそうとしたが
脳が「呼吸をする必要性
(不快な信号)」を
認識できない。
心臓を動かすための
微細な電気信号すら
薬は「不純なノイズ」として
沈黙させていく。
究極の快感とは
生命維持に必要な
「苦痛のフィードバック」を
すべて断絶することだった。
エフ氏は
至福の表情を浮かべたまま
ゆっくりとその場に倒れ込んだ。
死の恐怖すらない。
なぜなら
恐怖もまた
不快な感覚の一種だからだ。
彼はただ
この世で最も贅沢な
「静寂」に包まれながら
植物が枯れるように
眠りについた。
数万年後。
地球に降り立った
新たな知的生命体は
砂に埋もれた
一体の骨格を発見した。
その遺骨は
驚くほど滑らかで
苦悶の跡が
一切なかった。
「見てくれ。
この古代生物は
死の間際まで
最高に幸福だったようだ」
調査員は
骨のそばに落ちていた
青い小瓶を拾い上げた。
ラベルには
古代の文字で
こう書かれていた。
『警告:
本製品は
人生を卒業する準備ができた方専用です』
調査員は首を傾げ
それを
「ただの毒薬」として分類し
ゴミ捨て場へと放り投げた。
かつての
アトランティス王がしたのと
全く同じ手つきで。。。
(つづく)


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