忘却の食卓

忘却の食卓』

黄金の砂漠で
飢えに瀕していたエフ氏の前に
救いの手は意外な形で
差し伸べられた。

時空の歪みか
あるいは
誰かの慈悲か。

彼の目の前に
古びた
しかし
温かみのある木箱が
置かれていたのだ。

中には
焼きたての香ばしい匂いを放つ
一切れの白いパンが
入っていた。

添えられたカードには
流麗な筆致で
こう記されている。

『賢者パン:
 この世のあらゆる空腹を癒やし
 至高の満足感を与える。
 ただし
 一口食べるごとに
 あなたの過去の記憶を一つ
 代償として頂戴する』

「記憶だと?
 そんなもの
 今の私にはゴミ同然だ。
 飢え死にするよりは
 名前を忘れる方がマシだ」

 エフ氏は迷わず
 パンを口にした。

 それは
 驚くべき味だった。

 舌の上で
 とろけるような甘みと
 五臓六腑に染み渡る滋養。

 一口飲み込むごとに
 枯れ果てていた彼の肉体に
 活力が漲っていく。

と同時に
脳裏から
何かがスッと
消える感覚があった。

(……そうだ
私は昨日
黄金の山を見て
絶望していたのだった。

……いや
黄金?何のことだ。
まあいい
腹が満たされるなら
そんな些細なことは
どうでもいい)

パンは
不思議なことに
いくら食べても
減らなかった。

エフ氏は
無我夢中で
食べ続けた。

一口食べると
アトランティスの円筒を
拾った記憶が消えた。

二口食べると
レムリアの指導者たちの
嘲笑が消えた。

 三口食べると
仮想現実での
「鼻の痒み」という
地獄の記憶が消えた。

「ああ、美味しい。
 なんて幸せなんだ」

エフ氏の心は
次第に透明になっていった。

嫌な思い出も
後悔も
他人への不信感も
すべてパンの代償として
消え去っていく。

彼は
過去の重荷から解放され
純粋な
「今」だけを生きる存在へと
変貌していった。

 数時間後。

エフ氏は
黄金の廃墟の中で
日だまりのような
穏やかな微笑を浮かべて
座っていた。

もはや
自分がなぜここにいるのか
自分が誰なのかすらも
覚えていない。

ただ
目の前にある
美味しいパンと
満たされた腹部が
あるだけだ。

「さあ、最後の一口だ」

彼は
パンの端を
千切って口に運んだ。

その瞬間
彼から
「最後の記憶」が
失われた。

それは
「このパンを食べると
記憶を失う」という
このパンに関する
知識そのものだった。

 エフ氏は
手元にある
一切れのパンを見て
不思議そうに
首を傾げた。

「おや
こんなところに
美味しそうなパンがある。
……私は
腹が減っているのだろうか?」

彼は
自分の空腹の状態すら
思い出せなかったが
目の前に
食べ物があるのだから
食べるのが道理だと思った。

彼は再び
パンを口にした。

代償として
消える記憶は
もう残っていない。

そのため
パンは
「記憶」の代わりに
彼の「本能」を
一つずつ
削り取り始めた。

一口。
歩き方を忘れた。

二口。
言葉を忘れた。

三口。
呼吸の仕方を忘れた。

エフ氏は
自分が
なぜ苦しいのかも
分からぬまま
ただ
「美味しいものを食べた」という
多幸感のなかで
静かに機能を停止した。


 後日。

また別の放浪者が
その場所を通りかかった。

そこには
至福の表情で
横たわる老人の遺体と
古びた木箱があった。

木箱の中には
一切れのパンと
一枚のカード。

『賢者パン:
この世のあらゆる空腹を癒やし……』

放浪者は
カードを読み終える前に
パンの香りに抗えず
それを口にした。

そして
先ほど
読んだばかりの
カードの内容を
綺麗さっぱり
忘れてしまった。

「おや
このカードには
何が書いてあるんだろう?
まあいい
このパンは
実に美味しい……」

砂漠の風が
意味をなさなくなったカードを
遠くへと運んでいく。

人類が
どれほど高度な文明を築こうとも
あるいは
どれほど深い知恵を絞ろうとも
結局は
「目先の空腹」と
「心地よい忘却」には
勝てないのだ。

アトランティスも
レムリアも
そして
エフ氏も。

すべては
一切れのパンほどの重みもなく
風の中に
消えていった。

(完)

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