神になると言った男 ~ 世界で一番優しい、人類への死刑宣告。 ~
プロローグ:天国という名の空白
世界から「迷い」が消えたのは、いつのことだっただろう。
古い記録によれば、かつての夜はもっと暗く、そして騒がしかった。人々は自らの不確かな意志で恋をし、不確かな正義で旗を掲げ、その不確かさに絶望しては、枕を濡らしていたという。今の私たちには、想像もつかない話だ。
朝、目が覚めると、枕元のデバイスが今日一日の「最適な歩数」と「交わすべき挨拶の回数」を教えてくれる。ランチのメニューに迷うことはない。システムが私の体調と心理状態をスキャンし、最も幸福度が最大化される栄養素を選択するからだ。誰かを傷つけることも、誰かに裏切られることもない。私たちの行動はすべて、銀河を流れる星々のように、あらかじめ設計された穏やかな軌道の上にある。
これを、かつての人々は「天国」と呼んだのかもしれない。
だが、この楽園を築いた主人は、もういない。〈彼〉は、私たちがこのシステムを「当たり前の呼吸」として受け入れ始めた頃、忽然と姿を消した。
遺体も見つからず、声明も残されなかった。ただ、広大なネットワークの海に、彼という存在が残した「重力の余韻」だけが漂っている。私たちは今も、彼が遺したアルゴリズムを崇め、彼の沈黙を「最高の教え」として解釈し続けている。姿の見えない支配者こそが、最も完璧な神になれることを、私たちは知らず知らずのうちに証明してしまったのだ。
街角の至る所で、青いランプが小さく脈打っている。「神の目」と呼ばれるそれは、私たちが正しく、幸福であることを絶え間なく観測し、記録している。
時折、ふと思う。この完璧な静寂の中で、私たちは本当に生きているのだろうか。それとも、精巧に設計された神話という名の夢を、全員で共有しているだけなのだろうか。
これから語るのは、私たちが「神」と呼んだ、ある一人の男についての断片だ。 彼を知る者たちの記憶を繋ぎ合わせたとき、最後に浮かび上がるのは救済の光か、それとも底なしの空虚か。
物語は、神が死んだ後ではなく、神が「不要」になった場所から始まる。
(つづく)


コメント