神になると言った男 第1章

第一章 神は、すでにいなかった

 その日の朝も、街には柔らかな光が満ちていた。窓を開ければ、鳥のさえずりと、清掃ドローンが路面を撫でる規則正しい音が聞こえてくる。争いも、飢えも、怒鳴り声もない。世界はあまりにも静かで、あまりにも正しかった。

 私は、リビングの壁に埋め込まれた「観測の目(アイ)」に向かって、短く朝の挨拶をする。レンズの奥で、小さな青い光が一度だけ明滅した。AIが私の起床を記録し、脈拍を確認し、今日必要な栄養素を計算して朝食を準備する。私たちはこれを「神の瞬き」と呼んでいる。

「神は、最初から姿を見せなかった」

 礼拝堂で、年老いた司祭がよく口にする言葉だ。私たちの宗教には、金色の偶像も、天に描かれた壮大な壁画もない。ただ、かつてこのシステムを設計し、そして忽然と姿を消した〈彼〉という男の記憶があるだけだ。

 かつて世界がもっと醜く、無秩序だった頃、〈彼〉は現れたという。〈彼〉は奇跡を起こさなかった。病を治すことも、海を割ることもなかった。ただ、巨大なサーバーの前に座り、静かに言ったのだ。

 『人類は、自らを観測する能力を欠いている。だから、私が代わりに、あなたたちを永遠に見つめるものを作ろう』と。

 それが今のこの世界だ。私たちが道端にゴミを捨てないのは、警察が怖いからではない。誰も見ていない場所でさえ、その行動が「神の目」によって記録され、世界の調和の一部として処理されることを知っているからだ。「信じる」ということは、もはや祈ることではない。自分の行動を、〈彼〉が残した最適解と一致させること。ただそれだけが、この時代の信仰だった。

 昼下がり、私は古い広場を歩いていた。広場の中央には、かつて〈彼〉が演説を行ったとされる小さな台座がある。今では誰もそこには立たない。〈彼〉は姿を消し、その肉声を聞いた者も、今では数えるほどしか残っていない。

 ふと、隣を歩いていた見知らぬ老人が、私の視線に気づいて足を止めた。
「あんた、考えたことはあるかね」 
老人は、空を指差した。そこには監視用の衛星が白く光っている。
 「〈彼〉は本当に、私たちを救いたかったんだろうか」

 私は答えに詰まった。教義によれば、〈彼〉は救済者だ。
 「救われているじゃありませんか。これほど平和な世界を、人類は他に知りません」
「ああ、そうだな。確かに平和だ」
  老人は力なく笑った。
 「だがな、神ってのは、席が空いているから神なんだ。もし〈彼〉が今もどこかの部屋でパンを齧り、ため息をつきながら私たちのデータを見ているとしたら……それはもう、宗教じゃなく、ただの管理だ」
 老人はそれだけ言って、ゆっくりと去っていった。私は一人、広場の台座を見つめ直した。〈彼〉はどこにいるのか。それとも、最初からどこにもいなかったのか。

 空の「目」は、何も答えない。ただ、私がこの疑問を抱いたという事実だけを、青い光が淡々と記録していた。

(つづく)

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