神になると言った男 第2章

第二章 最初に救われた人

 かつて、私の人生は「騒音」に埋め尽くされていた。督促状の束を叩きつける音、妻が去り際に閉めたドアの衝撃音、そして真夜中に自分の頭の中で鳴り響く「死んでしまえ」という卑屈な囁き。十数年前、私はただの失敗作だった。事業に失敗し、友人を失い、明日食べるパンの代金さえもギャンブルで使い果たすような、救いようのないクズだった。

 そんな時、私は〈彼〉に会った。いや、「会った」という表現は正しくないかもしれない。当時はまだ、後の「神」も、場末の雑居ビルの一室で古びたキーボードを叩いている、青白い顔をした青年に過ぎなかった。

「お前は、自分がなぜ不幸か知っているか」

 〈彼〉は、画面から目を離さずに私に問いかけた。私は酒の臭いを振りまきながら、「運が悪いからだ」とか「時代が悪い」とか、ありふれた呪詛を吐いたと思う。〈彼〉は初めて私を振り返った。その瞳は、怒っているわけでも、憐れんでいるわけでもなかった。ただ、精密なレンズのように私を通り抜けて、その背後の構造を見ているようだった。

「違う。お前には『重力』がないんだ」

 〈彼〉は淡々と言った。「右に行けば得をするかもしれない、左に行けば誰かに褒められるかもしれない。お前は、自分以外の視線に振り回されている。だから迷う。だから間違える。お前の人生には、中心となるべき不変の『観測点』がない」

 それが、後に世界を席巻する思想の萌芽だった。〈彼〉は私に、一枚のリストを渡した。そこには、明日から私が取るべき行動が、秒単位のスケジュールとして記されていた。何時に起き、どの道を歩き、誰に挨拶し、何を食べるか。それは祈りでも、道徳的な教えでもなかった。ただの「最適化された行動指針」だった。

「これを宗教だと思うな」と〈彼〉は言った。「これは、お前というシステムを正常に稼働させるためのデバッグ作業だ。希望なんて持つな。ただ、この通りに動け。私がお前を観測している間だけは、お前は正解でいられる」

 私は、必死でそのリストに従った。最初は苦痛だった。自由を奪われた囚人のような気分だった。だが、一週間が過ぎる頃、奇妙な感覚が私を包み込んだ。迷う必要がない、ということは、これほどまでに平穏なのか。自分の意志で歩いているのではない。〈彼〉という観測者が認める「正しい軌道」をなぞっているだけだという全能感。私は、自分の人生の責任から、初めて解放されたのだ。

 数年後、私は事業を再建し、失った信頼の多くを取り戻した。人々は私を「奇跡の復活」と呼んだが、私は心の中で笑っていた。奇跡など起きていない。私はただ、複雑な計算式の解として振る舞っただけだ。

 今、私は高級なスーツに身を包み、この平和な街のベンチに座っている。私の胸元には、教団のシンボルである小さな銀のブローチが光っている。時折、初期の頃の〈彼〉を思い出す。あの雑居ビルの湿った空気。キーボードを叩く指の震え。

 世間は〈彼〉を神と崇め、その不在を嘆いているが、私は少し違う。私を救ったのは、愛でも慈悲でもなかった。「お前がどうなろうと、世界には正しい答えが用意されている」という、あの冷徹なまでの方向提示(ディレクション)だ。

 あの日、〈彼〉は最後にこう付け加えた。『私が神になるんじゃない。お前たちが、神を必要としているだけだ』

 私は今でも、毎朝配信される「今日の指針」を確認する。そこに〈彼〉の意志が入っているのか、それともただのアルゴリズムなのかは、もはや重要ではない。  私は、私でいることに疲れ果てていた。だから、〈彼〉に私を明け渡した。そのおかげで、今の幸せがある。

 これは信仰ではない。私が、私という失敗作を、最も美しく使いこなすためのマニュアルなのだ。

(つづく)

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