第三章 言葉を設計した女
私の仕事は、彼を「翻訳」することだった。より正確に言えば、彼という巨大なブラックホールから漏れ出す高密度のエネルギーを、人類が摂取可能な「言葉」という錠剤に加工することだ。
教義編集チーム。世間からは聖典の編纂者と目されているが、実態はコピーライターと論理学者の混成部隊だ。私たちのオフィスには、彼が日常的に発した数百万時間の録音データと、書き殴られたメモが蓄積されていた。
「これでは強すぎるわ。削って」
私は端末の画面に表示された一節を指差した。原典にはこうあった。
『君たちが何をしようと、宇宙の質量は変わらない。善悪は統計上のエラーに過ぎない』
これをそのまま流せば、絶望する者が続出するだろう。私は指先で、その鋭利な刃物を研磨していく。
『あなたの行動は、大いなる調和の一部である。個々の迷いは、観測によって収束する』
意味は同じだ。だが、受ける印象は正反対になる。彼は言葉を設計することを、私に一任していた。彼は自分の言葉がどう書き換えられようと、まるで行き先のない列車の車窓を眺めるような顔をして、一度も文句を言わなかった。
「先生、なぜ私を信じるのですか?」
ある夜、私は耐えきれずに尋ねたことがある。一語で人生を変え、一文で世界を再構築する男。その男の「心」を、私が勝手に捏造しているような後ろめたさがあった。
彼はキーボードを叩く手を止め、ゆっくりと私を見た。
「私は信じているわけじゃない。ただ、出力の結果を見ているだけだ」
「でも、これはあなたの言葉ではありません。私が選んだ、最も効率的な記号です」
「それでいい。私という個人の揺らぎ(ノイズ)が消え、純粋な『問い』だけが残る。それが設計の完成形だ」
その時、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。彼は、自分自身さえも「神」というシステムを構築するための部品(リソース)として扱っていたのだ。
私たちのチームは徹底していた。彼が発した「腹が減った」という言葉さえ、私たちは「欠乏は進化の契機である」と変換した。彼がふと見せた寂しげな沈黙は、「静寂こそが観測の極致である」と定義された。
世界が熱狂する「教祖の言葉」は、実は統計学に基づいた最大公約数の癒やしに過ぎない。人々は彼の知性に畏怖を覚えているが、その知性の半分は、私たちのアルゴリズムが作り出した虚像だった。
だが、恐ろしいのはここからだ。数年が経ち、教義が完成に近づくにつれ、彼の発言そのものが、私たちが設計した「教義」に寄っていったのだ。彼が先にいたのか、私たちが作った偶像が彼を飲み込んだのか。最後の方、彼は私たちが用意したスクリプト(台本)以外のことを喋らなくなった。
彼は、自ら作り出した鏡の中に消えてしまった。
「これは、誰の言葉なのか?」
今、世界中に配信されている「彼の声」を聴きながら、私は自問する。スピーカーから流れる完璧な論理。非のうちどころのない慈愛。それは確かに私が磨き上げた言葉だ。
だが、その奥底に、時折ひどく不安定な「ノイズ」が混じっているような気がしてならない。それは、言葉になることを拒んで削り捨てられた、一人の人間の悲鳴だったのではないか。
私は、自分が救世主を作ったのか、それとも一人の男を言語の牢獄に閉じ込めたのか、今でも分からない。
(つづく)


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