第六章 離脱者の沈黙
「どうして辞めたんですか?」
この数年、何度そう聞かれただろう。教団の聖区を離れ、ネットワークの監視が届きにくいこの辺境の町に移り住んでから、私の肩書きは常に「元・信者」だった。町の人々は、私が何か恐ろしい真実を知っているのではないかと期待の眼差しを向ける。あるいは、教祖の隠し子だとか、莫大な資金を横領したのだとか、下世話な噂を肴に酒を飲む。
だが、私は何も答えない。ただ、古びたダイナーのカウンターで、泥のようなコーヒーを啜るだけだ。
かつての私は、教団の広報部門にいた。〈彼〉の言葉を世界に広め、救われた人々の声を編集し、この「完璧な調和」がいかに人類の悲願であったかを喧伝する。私は自分の仕事に誇りを持っていたし、実際に〈彼〉の思想が浸透するにつれ、世界から凄惨なニュースが消えていくのをこの目で見ていた。
私が離脱を決めたのは、ある晴れた日の午後、小さな事件を目撃したからだ。
聖区の公園で、一人の少女が転んで膝を擦りむいた。少女は泣かなかった。彼女はすぐさま手首の端末を確認し、システムから提示された「怪我をした際の最適な呼吸法」と「感情のコントロール手順」を読み上げた。そして、数秒後には人工的な笑みを浮かべて立ち上がった。
その光景を見た瞬間、私は吐き気を覚えた。痛みがある。血が出ている。なのに、彼女の心は一ミリも動いていない。システムが痛みを「処理」してしまったからだ。彼女から、傷つく権利さえも奪ってしまったからだ。
私はその足で、〈彼〉の執務室へ向かった。運よく、側近たちが席を外していた。私は震える声で彼に問いかけた。
「先生、私たちは、人間から『痛み』を奪いすぎたのではありませんか。これでは、私たちはただの故障しない機械です」
〈彼〉は椅子に深く腰掛け、窓の外に広がる完璧な街並みを眺めていた。その背中は、神というよりは、あまりに重い荷物を背負わされた少年のように小さく見えた。彼は私を振り返らずに、ただ一言、こう呟いた。
「……羨ましいな」
その声は、これまで設計されてきたどの教義よりも、ひどく掠れていて、人間臭かった。
「傷つくことができて、羨ましいと言ったんだ。私はもう、自分の悲鳴さえ、システムが計算したノイズにしか聞こえない」
私はその日、教団を去った。 何も告発せず、何も持ち出さず、ただ静かに消えた。
私が沈黙を守り続けているのは、教団が怖いからではない。否定できないからだ。事実として、あのシステムは世界を救った。紛争は止まり、飢餓は消え、孤独な老人が野垂れ死ぬこともなくなった。私が今こうして辺境で安穏と暮らせているのも、〈彼〉が構築した経済圏の恩恵があるからだ。
もし私が「あれは偽物だ」と叫べば、それはあの少女が手に入れた平穏を、あの中年男性が取り戻した生活を、すべて「嘘」だと断じることになる。救われた過去まで嘘にしてしまう権利は、私にはない。
だから、私は口を閉ざす。この町で時折、システムのエラーで誰かが怒鳴り声を上げたり、誰かが不合理な恋に破れて泣いているのを見かけると、私は胸が締め付けられるような安堵を覚える。
「神」を捨てたのではない。私はただ、正解のない暗闇の中で、もう一度、膝を擦りむいてみたかっただけなのだ。
コーヒーは、ひどく苦かった。 その不快な苦味こそが、私が私であることの、唯一の証明だった。
(つづく)


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