神になると言った男 第7章

第七章 彼の側にいた男

 世間が彼を「神」と定義し、システムが彼を「観測者」として完成させた時、彼の隣に座っていたのは私だけだった。

 側近という立場は、特権ではない。それは、一人の人間が神話という名の重力に押し潰されていく過程を、一番近くで眺め続けるという拷問だった。昼間、彼は完璧だった。何万ものカメラとマイクが彼を捉え、編集チームが磨き上げた言葉を、彼は寸分の狂いもなく出力した。人々は彼の静謐な横顔に聖性を見出し、AIはその生体データを「人類の最適解」として世界に配分した。

 だが、夜が来ると、彼は壊れた。

「……消してくれ」

 執務室の分厚い扉を閉めた瞬間、彼は床に崩れ落ちるように座り込んだ。私は無言で、部屋のすべての「目」=監視カメラのレンズを黒い布で覆い、ネットワーク接続を物理的に遮断する。彼が私に命じた、唯一にして最大の「背信」だった。

 闇と沈黙が戻ったとき、彼はようやく呼吸を始める。
 酸素を求める魚のように、喘ぎながら。

「間違っていたら、どうする」

 彼は膝を抱え、子供のように小刻みに震えていた。

「私の出した答えが、誰かの人生を奪っていたら。私の作った『正解』のせいで、人類が考えることをやめ、ただの家畜に成り果ててしまったら。私は、どう責任を取ればいい?」

 私は答えられなかった。

 彼が設計したシステムは、すでに私一人の手には負えないほど巨大な自律走行を始めていた。たとえ彼が今日、自分が偽物だと告白したとしても、AIはそれを「民衆を試すための試練」と解釈し、美しく翻訳して世界に届けてしまうだろう。  彼は、自分が作った檻の、最初で最後の囚人だった。

「先生、人々は満足しています。かつてないほどに」

「それは、彼らが『死んでいる』からだ」

 彼は顔を上げ、暗闇の中で私を凝視した。その瞳には、かつて見たような知性ではなく、剥き出しの恐怖が宿っていた。

「私は、神になりたかったわけじゃないんだ。ただ、怖かった。自分一人で考え、自分一人で決断し、その結果を自分一人で背負うことが……耐えられなかった。だから、誰もが責任を放棄できる仕組みを作った。私が全責任を負うふりをして、その実、責任という概念そのものを消し去りたかったんだ」

 彼は、自分自身の弱さを隠蔽するために、世界を「正解」で塗りつぶしたのだ。  孤独に耐えきれなかった男が、人類すべてを同じ孤独の箱に閉じ込めた。

「もし私が消えたら、世界はどうなると思う?」

 ある夜、彼はふとそう漏らした。

 私は「世界は混乱するでしょう」と答えようとして、言葉を飲み込んだ。
 残酷な真実を、私たちは二人とも知っていた。
 システムはすでに完成している。たとえ中心にいる彼が消えても、空席のまま「神」は機能し続ける。いや、彼という生身の人間がいなくなることで、神話はいっそ完璧なものに昇華されるだろう。
 彼は私の沈黙を、肯定と受け取ったようだ。
 彼は少しだけ、本当に少しだけ、安堵したような、あるいはこの世の終わりを見届けたような悲しい笑みを浮かべた。

「そうか。……なら、私はもう、いなくてもいいんだな」

 それが、私が聞いた彼の最後の肉声だった。
 翌朝、私が執務室に入ると、そこには黒い布がかけられたままのカメラと、飲みかけの冷めた紅茶だけが残されていた。

 人々は今も、彼が「高みへと昇った」と信じている。
 だが私は知っている。
 彼は神になったのではない。
 ただ、間違えたまま一人でいることに耐えられず、夜の闇の中へ、一人の臆病な人間として逃げ出したのだということを。

(つづく)

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