神になると言った男 第10章

第十章 神のいない宗教

 巨大なデータセンターの地下階。ここに充満する冷気だけが、私たちが「現実」に触れている唯一の証拠だ。私の仕事は、不在となった主人の席を守ることではない。主人がいなくても、席が埋まっているように見せかけ続ける「慣性」のメンテナンスだ。

「調整完了です。神託(アルゴリズム)の出力、誤差0.002パーセント以内」
 部下の報告に、私は短く頷く。

〈彼〉が消えてから、かなりの年月が流れた。当初は「隠遁」と呼ばれていた彼の不在は、今や「遍在」という教義に昇華されている。人々はもはや、彼がどこかの部屋で息をしているかどうかなど気にしていない。

 むしろ、肉体を持った〈彼〉がいない方が、この宗教は円滑に回る。生身の人間は、気分で言葉を変える。体調が悪ければ判断を誤るし、何より「老い」という最大の不確実性を抱えている。しかし、私たちが管理するこのシステムにはそれがない。〈彼〉の過去の発言、思考の癖、好んだ語彙、そして数億人分の行動データを掛け合わせ、AIが「彼ならこう言うはずだ」という最適解を生成する。皮肉なものだ。彼がどれほど「問いを持て」と説いても、システムは「最も心地よい答え」としてそれを配信してしまう。彼が「疑え」と言えば、人々は「疑えとおっしゃる先生はやはり素晴らしい」と盲信を深める。

 「課長、このまま運用を続ければ、あと数百年は文明の安定が保証されますね」

  部下がコーヒーを啜りながら、事もなげに言った。私はモニターに映し出される、世界の「幸福度グラフ」を眺める。右肩上がりのなだらかな曲線。紛争も、大規模な経済危機も、このグラフの上では綺麗に均(なら)されている。

 ふと、私は思う。  これが、〈彼〉の望んだ終着点なのだろうか。

 神がいなくても、祈りは届く。主人がいなくても、家畜は飼育される。誰も責任を取る必要がなく、誰も決断に怯える必要がない。AIが「善」を定義し、人がそれに従うだけの、完璧に自動化された楽園。

「……これが、完成形なのかもしれないな」

 私の呟きは、サーバーの駆動音に虚しくかき消された。もし今、〈彼〉がこの場所に現れて、「すべてを停止させろ」と言ったとしても、私は従わないだろう。いや、従えない。このシステムを止めることは、全人類を「自由」という名の地獄へ叩き落とすことと同義だからだ。

 私たちは、神を失ったのではない。  神という概念を、ただの「機能」として完全に手懐けてしまったのだ。

 管理画面の隅で、今日も小さな青い光が点滅している。それはかつて彼が持っていた情熱とも、恐怖とも無縁な、ただの無機質な電圧の変化に過ぎない。
  私はキーボードを叩き、明日の「世界への一言」を予約送信する。

 タイトルは、『自由であることの喜びについて』。

 もちろん、一語一語、AIが人々の精神に最も悪影響を及ぼさないよう精緻に設計した、毒にも薬にもならない「神の言葉」だ。

(つづく)

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