おれはオレンジャー!
君たちは「正しさ」という旗を持つと、ついついそれを高く掲げたくなってしまう
まるで戦場での軍旗のように、自分の立場や意見を「これこそが真実!」と誇示したくなるんだ
だけど、その旗を掲げすぎると、いつの間にか風にあおられ、旗の下に集まった仲間以外の人を排除してしまうことがある
そう、「正しさ」っていうのは人を守る盾にもなるけど、人を傷つける剣にもなるんだ

実は正しさには、二つの顔がある
一つは、自分や誰かを守るための灯台としての正しさ
暗い夜の海を進むとき、「こっちが安全だよ」と教えてくれる光のような顔
それはありがたい存在だし、なくては困ることも多い
でももう一つは、「あの光以外は全部間違い!」と断定してしまう強硬な顔
この顔が現れたとき、正しさは柔らかい灯台ではなく、裁判官のハンマーとなってしまう。
トントン、と鳴らされるたびに、世界が分断されてしまうんだ
SNSなんかを見てると、この罠があちこちに仕掛けられてるのが見えてくる
誰かが失敗したら「それは間違ってる!」「そんなことするなんて許せない!」と炎上の火がつく
そこに集まる人たちは、まるで正義の戦士になったかのように振る舞っている
でも、その正義の矢の先にいるのもまた、一人の人間
笑ったり泣いたり、迷ったり間違えたりする存在なんだ
本当に大切なのは、その人の行為を糾弾することじゃなくて、背景にある「なぜ?」に耳を傾けることじゃないだろうか
「正しい」っていう感覚は、実はとても相対的なもの
時代によっても変わるし、文化によっても変わる
かつては常識だったことが、今では非常識になったり、逆に昔は異端扱いだった考えが、今では「革新」として称賛されたりする
つまり、正しさっていうのは永遠の真理というよりも、その時代と社会が作り出した「一時的なルールブック」にすぎないんだ
でも僕らはつい「自分が正しい」という確信に酔いたくなる
それはなぜだろうか?
それは、正しさに寄りかかると安心できるからだ
迷路の中で「この道こそがゴールに通じてる!」と思えるとき心は軽くなる
でも、もしその道が袋小路だったら?
そこで立ち止まって、「あれ? 本当に正しいのかな?」と疑えるかどうかが大事なことなんじゃないだろうか
オレ的に言うなら、正しさは「道しるべ」ではあっても「目的地」じゃない
ゴールにたどり着くためには、地図を信じることも必要だけど、ときにはコンパスを置いて、足の裏の感覚や風の匂いを頼りに進むことも大切
つまり、正しさに従うだけじゃなく、「いま、ここで自分はどう感じるか?」という感性を信じる勇気が必要なんだよ
もうひとつ大切なのは、「正しさ」を人に押し付けないこと
自分の正しさは、あくまで自分のための道具。他人に強制した瞬間、それは支配の道具に変わってしまう
もし君が持ってる正しさが本当に美しいものであれば、押し付けなくても自然と誰かが「その光、いいな」と近づいてくるはず
太陽が誰にも命令せずとも、草木が光を求めて伸びていくようにね
結局のところ、正しさの罠から抜け出す方法はシンプルだと思う
それは「正しさ」よりも「優しさ」を優先すること
議論に勝つことよりも、相手を理解しようとすること
自分の意見を証明することよりも、相手の気持ちを感じ取ること
正しさが世界を分断するのに対して、優しさは世界をつなげる
だから、もし君がどっちを選ぶか迷ったときは、「この選択は優しいだろうか?」って自分に問いかけてみるといい
きっとその瞬間、心の中に小さな答えが浮かんでくるはずだよ
正しさを超えた先に、本当の自由がある
それは、間違ってもいい、未完成でもいいという自由
そして、その自由の中で生まれる「本音のつながり」こそが、僕らが本当に求めているものではないだろうか
今日はこんなところだ
じや!
<秋のスピリチュアルイベント参加者募集中!>
● 9/27(土)伊勢スピリチュアルツアー1日目
※1日だけのご参加も可能です!
・二見興玉神社
・志摩国一の宮 伊射波神社
・皇大神宮別宮 伊雜宮
・天の岩戸(恵利原の水穴)
● 9/28(日)伊勢スピリチュアルツアー2日目
※1日だけのご参加も可能です!
・伊勢神宮(外宮&内宮)
・皇大神宮別宮 瀧原宮
・皇大神宮別宮 月讀宮
・豊受大神宮別宮 月夜見宮
● 9/30(火)鞍馬寺・貴船神社スピリチュアルツアー
・鞍馬寺本殿金堂金堂
→ 奥の院参道
→ 魔王殿
→ 西門(鞍馬山登山道)
・貴布禰総本宮 貴船神社(本宮、結社、奥宮)
● 10/5(日)~10/6(月)
美保神社&出雲大社両参り出雲スピリチュアルツアー
・美保神社
・須我神社
・須我神社奥宮
・出雲國一之宮 熊野大社
・出雲大社
・稲佐の浜
・日御碕灯台
・日御碕神社
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