『エフ氏の非公式な心臓』
エフ氏は、この世から
「恋愛」という名の非効率なバグが
排除されるべきだと考えている男だった。
彼にとって、
街中に溢れるラブソングは
「聴覚への不法侵入」であり
バレンタインデーは
「カカオ豆の価格操作キャンペーン」に過ぎない。
エフ氏は毎朝
自作のウェアラブル端末で
自身の血中ホルモン濃度をチェックし
ドーパミンやオキシトシンが
異常値を感知しないよう
細心の注意を払って生活していた。
「恋愛とは、
脳内物質の誤作動による
短期的な精神疾患である」
それがエフ氏の口癖だった。
高いレストランの予約。
意味のない記念日。
そして何より
相手の機嫌を伺うという
膨大な演算リソースの浪費。
それらすべてを
貯蓄と自己研鑽に回せば
人生の期待値は
飛躍的に向上するはずだった。
そんなエフ氏の前に
ある日「ノイズ」が現れた。
職場の隣のデスクに配属された
エス(S)という女性である。
彼女は
エフ氏が最も嫌悪する
タイプの人間だった。
デスクには季節外れの造花。
昼休みには
「なんとなく」という理由で
遠くのパン屋まで歩いていく。
エフ氏は
彼女がいかに非論理的であるかを
データで証明しようと試みた。
彼女の行動ログを
勝手に脳内で集計し
(もちろん学術的な関心からだ)
その無駄を指摘する準備を整えた。
「エスさん
君が今日そのパンを買うために消費した
15分と1200キロカロリーの移動コストは
栄養摂取の効率を著しく下げている」
エス嬢は不思議そうに
目を丸くし、笑った。
「でも、
ここのクロワッサン
噛むと音が
『冬の朝』みたいな感じがして
素敵なんですよ。
エフさんも一口いかがですか?」
「冬の朝の音」などという
物理単位で計測不能な表現に
エフ氏の論理回路は
一時的なフリーズを起こした。
そしてあろうことか
彼のウェアラブル端末が
「心拍数の微増」を検知し
アラートを鳴らしたのである。
エフ氏は焦った。
これは感染症だ。
あるいは
未知のウイルスによる
認知バイアスだ。
彼はこの「異常事態」を
収束させるため
あえて敵の懐に飛び込むことにした。
すなわち
彼女を徹底的に観察し
その正体を暴くことで
自身の脳に
「これはただの現象だ」
と分からせるのだ。
彼はエス嬢を
夕食に誘った。
「エスさん、
君の非論理的な行動原理を
サンプルとして採取したい。
つきましては
19時から栄養摂取の共同作業
(一般にディナーと呼ばれるもの)を
行いたいのだが」
エス嬢は
「面白そうですね」
と快諾した。
当日
エフ氏は武装していた。
ポケットには
「話題の期待値リスト」と
「沈黙が発生した際の予備トピック」。
心拍数を一定に保つための
β遮断薬まで
用意していた。
しかし
食事中のエス嬢は
エフ氏の用意した
高度な統計学の話題を
すべて
「それって
なんとなくワクワクしますね」
という
魔法のフレーズで
無効化した。
彼女が笑うたびに
エフ氏の端末は
「不整脈の疑い」
「異常な体温上昇」
を警告し続ける。
ついにエフ氏は
耐えきれずに
言い放った。
「認めよう、エスさん。
私は君という存在によって
著しいパフォーマンスの低下を
招いている。
この事態を解決する
論理的な手段は
一つしかない。
私と一種の
『独占的相互依存契約』
を結ぶことだ。
これがいわゆる
『交際』という名の、
社会的リスクヘッジだ」
エス嬢は
少しの間沈黙し
それから
ワインを一口飲んで言った。
「エフさん、
それって
私に恋をしている
ってことですか?」
「『恋』という言葉は
定義が曖昧だ。
私はただ
君という変数を
私の人生の計算式に
組み込まないと
答えが合わなくなる
と言っているんだ」
エス嬢は
クスクスと笑い
バッグから
自分のスマートフォンを取り出した。
画面には
エフ氏のものと
よく似た
健康管理アプリ。
「残念でした、エフさん。
私もその
『効率化』の信奉者なんです。
でも
私のアプリ
さっきから
『この相手は論理的すぎて退屈です。
心拍数に変化なし。
即刻帰宅を推奨します』
って通知し続けてるんですよ」
エフ氏は絶句した。
「……心拍数に、変化がない?」
「はい。
あなたの必死なデータ分析
見ていて面白かったんですけど
私には全然響かなかったみたい。
恋愛って
お互いの計算が
狂うから楽しいんじゃ
ないですか?
片方だけが
バグってるのは
ただの故障ですよ」
エス嬢は
スマートに会計を済ませると
(もちろん正確な割り勘だ)
「お大事に」
と言い残して
店を去った。
一人残されたエフ氏は
震える手で
自分の端末を見た。
画面には
真っ赤な文字で
こう表示されている。
【警告】
重度のオーバーヒート!
システムの強制終了が必要です!
彼は気づいた。
自分は
「恋愛」という名の
非効率をバカにしていたが
その実
最も非効率な
「片想い」という名の
シングルタスクに
全リソースを
注ぎ込んでいたのだ。
翌日
エフ氏は
デスクの花を
捨てようとした。
しかし
手が止まる。
彼はその花を
じっと見つめ
昨日の彼女の言葉を
思い出した。
「冬の朝の音……」
彼は
自分の心臓が吐き出す
無意味で計測不能なリズムを
ただ黙って
聞き続けるしかなかった。
それが
いかに愚かで
コストパフォーマンスの悪い
行為であるかを
誰よりも理解しながら。
(完)


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