神になると言った男 エピローグ

エピローグ:観測されない祈り

 すべての記録がアーカイブに飲み込まれ、画面が暗転した。私は静かに席を立ち、窓際へ歩み寄った。

 街は、今日も美しい。計算され尽くした交通量、最適な光量で街路を照らす街灯、そして誰もが「正しいタイミング」で眠りにつく、平穏な夜。この光の海の中に、怒りも、後悔も、明日への不安に震える夜も存在しない。
〈彼〉が命を削って作り上げたシステムは、今や彼という作り手さえ必要とせず、永久機関のように幸福を生産し続けている。

 ふと、私は自分の手首にあるデバイスを外した。それは、私の「存在」をシステムに繋ぎ止めるための命綱だ。外した瞬間、アラートが鳴るかと思ったが、意外にも世界は静かなままだった。私はそのデバイスを机の上に置き、部屋を抜けて、エレベーターを使わず階段を下りた。
 建物の外に出ると、夜風が頬を撫でた。街角の「青いランプ」が、私を捉えようとして微かに揺らいだ。だが、私の個人データと切り離されたその光は、私を「通行人A」というただの匿名のノイズとしてしか認識しない。

 私は、街の中心にあるあの「台座」へと向かった。第1章で無名の信者が眺め、第9章で〈彼〉が最後の一歩を踏み出した、あの場所だ。

 台座の隅には、誰かが置き忘れたのか、あるいはシステムが回収し損ねたのか、一本の小さな花が落ちていた。人工的に品種改良された、枯れることのない完璧な花だ。私はその花を拾い上げ、暗い空を見上げた。

「……先生」

 私は、声に出さずに呟いた。私のこの呟きは、どのサーバーにも記録されない。どのAIも解析しない。かつて、この世界のすべての言葉を「教義」へと作り替えた彼が、最も欲しがっていたのは、こうした「記録されない、無意味な独り言」だったのではないだろうか。

 私は、自分が抱いたこの小さな、論理的ではない寂しさを、大切に噛み締める。  それはシステムが提示する「幸福」よりも、ずっと重く、ずっと確かな「生」の手触りだった。

 神がいなくなった後の世界で、私たちはこれからも幸福に生きていくだろう。  誰もが正しい道を選び、誰もが最適解を愛し、誰もが穏やかな最期を迎える。それは、人類がかつて求めて止まなかった究極の答えだ。

 だが、もしも。もしも、この完璧な夜の片隅で、誰かが「間違い」を犯そうとしたなら。誰かが「正解」を拒んで、泣きながら暗闇を歩こうとしたなら。
 その時、その人の横顔を照らすのは、システムの青い光ではない。彼が最後に残した、あの残酷で、優しい「問い」そのものなのだ。

 私は花を台座に置き、ゆっくりと歩き出した。行き先は、まだ決めていない。  システムに頼らず、自分の足がどこへ向かいたがっているのかを、ただ感じてみたかった。

 空には、相変わらず無数の「目」が光っている。だが、今の私には、それがただの冷たい星のようにしか見えなかった。

 夜明けは、まだ遠い。
 けれど、私は今、初めて自分の意志で、暗闇を愛そうとしている。

(完)

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