エフ氏は
紛れもない天才だった。
それも
単に成績が良いとか
発明が得意だとかいうレベルではない。
彼の頭脳は
あらゆる事象の「先」を
瞬時に
かつ完璧に計算してしまうのである。
彼が街を歩けば
向こうから来る男の足取りから
その男が三歩後に石に躓くことがわかる。
会話を始めれば
相手が話し出す前に
その会話がどのような結末を迎え
どのような感情のすれ違いが生じるかまで
映画の台本を読むように理解してしまう。
エフ氏にとって
この世界に「未知」という言葉は
存在しなかった。
そして
それこそが彼の最大の苦悩だった。
「ああ、退屈だ。
死ぬほど退屈だ」
エフ氏は
贅を尽くした書斎で
ため息をついた。
新しい本を読んでも
最初の数行で
著者の思想的限界と結末がわかる。
最高の料理を食べても
一口噛めば
脳がその味の成分と構造を完璧に分析し
驚きを奪い去る。
恋愛など
もってのほかだ。
相手が自分にいつ飽き
いつ裏切るかという確率変数が
常に視界に数字となって浮かんでいるのだから。
エフ氏は
この「知能」という名の呪いから
逃れたいと切望した。
彼はある日
怪しげな広告を出している
「特殊医療研究所」を訪ねた。
そこは
世間に馴染めない超高知能者たちを対象に
特殊な処置を行っているという噂の場所だった。
出迎えたのは
血色の悪い
だが丁寧な物腰の医師だった。
「エフ様。
あなたほどの知能をお持ちの方が
ここへ来られるとは。
ご要望は
やはり『忘却』ですか?」
エフ氏は
椅子に深く腰掛け
吐き捨てるように言った。
「いや
もっと根源的なものだ。
私は『驚き』という感情を取り戻したい。
何が起こるかわからないという恐怖や
予想外の結果に目を見開くという
あの人間らしい感覚だ。
私の脳から
この忌々しい予測演算機能を排除してくれ」
医師は
眼鏡の奥の目を光らせ
静かに頷いた。
「不可能なことではありません。
最新のナノマシンを
脳の演算部位に送り込み
あなたの知能を『標準的』
あるいはそれ以下にまで
意図的に低下させる処置があります。
ただし
一度下げた知能は
二度と戻りません。
それでも
よろしいのですか?」
「もちろんだ。
むしろできる限り下げてくれ。
バカになればなるほど
世界は驚きに満ちているはずだろう」
処置は数時間で終わった。
エフ氏が目を覚ますと
世界は一変していた。
窓の外から聞こえる鳥の声が
何の法則に従っているのかわからない。
壁に掛かった時計の針が
次にどこへ動くのかも
予測できない。
彼は、自分の名前さえ
一瞬思い出せなくなるほどだった。
「素晴らしい……!」
エフ氏は
震える声で叫んだ。
「私は何もわからない!
次に何が起こるか
まったく想像がつかないぞ!」
彼は
研究所を飛び出し
街へ出た。
すべてが新鮮だった。
道端に咲く花の色に驚き
通り過ぎる車の騒音に怯えた。
彼は
ついに手に入れた
「無知の幸福」に酔いしれた。
しかし
その幸福は
長くは続かなかった。
エフ氏が
空腹を感じて入ったレストランで
彼はハタと気づいた。
メニューに書かれた文字が
読めない。
数字の意味も
わからない。
自分が持っている紙切れ(紙幣)が
食べ物と交換できるという理屈さえ
ぼんやりとしか理解できない。
彼は
注文もできず
店員に不審な目で見られ
追い出されてしまった。
雨が降ってきた。
かつての彼なら
雲の動きから
降雨のタイミングを秒単位で予測し
濡れる前にタクシーを呼んでいたはずだ。
しかし今の彼は
なぜ空から水が降ってくるのかさえわからず
ただ恐怖に震えて
立ち尽くすしかなかった。
「これは大変だ……。
何かを考えなければ。
しかし
どうやって考えればいいんだ?」
彼は
必死に脳を働かせようとしたが
そこには
空っぽの空間が広がっているだけだった。
彼は絶望し
再び
あの研究所へと
這うようにして戻った。
「先生、助けてくれ!」
エフ氏は
泣きながら叫んだ。
「バカになるということは
こんなにも恐ろしいことだったのか。
私は何もできない。
生きる術も
この恐怖を解消する方法も
わからないんだ!
お願いだ
知能を……
私の知能を返してくれ!」
医師は
困ったような顔をして
エフ氏を見つめた。
「困りましたね
エフ様。
処置の前に
申し上げたはずです。
二度と戻らないと」
「そんな殺生な!
どんなにお金を払ってもいい。
私の脳を元通りにしてくれ。
あの退屈だった日々が
今では
天国のように思えるんだ!」
医師は
しばらく黙っていたが
やがて溜息をつき
一枚の書類を差し出した。
「……実は
救済措置がないわけでもありません。
私たちの研究所では
エフ様のような後悔をされる方のために
ある『代用品』を用意しています。
これを使えば
あなたは再び
天才的な判断力を取り戻すことができるでしょう」
「本当か!
それを
今すぐやってくれ!」
エフ氏は
必死に書類にサインした。
といっても
今の彼には
それが何の内容なのか読めず
ただミミズのような線を
引いただけだったが。
再手術が終わった。
エフ氏の意識が戻ると
頭の中には
再び
澄み渡るような論理の海が広がっていた。
壁のシミから
微細構造を読み取り
空気の振動から
建物の老朽化度を算出する。
かつての――
いや
かつて以上の
圧倒的な知能が戻っていた。
「ああ
これだ!
これだよ。
やはり人間には
この知力が必要だ」
エフ氏は
満足げに立ち上がり
医師に礼を言おうとした。
しかし
その瞬間。
エフ氏の視界の隅に
青白く光る文字が
浮かび上がった。
『アップデート完了。
システム正常稼働中。
残り契約期間:99年』
エフ氏は
凍りついた。
彼の脳内では
驚くべき速度で
一つの結論が導き出されていた。
今の自分には
生身の脳など存在しない。
先ほどの手術で
彼の壊れた脳細胞はすべて
超高性能なAIチップへと
置換されてしまったのだ。
さらに
自分の体の感覚が
おかしいことに気づく。
鏡を見ると
そこには
エフ氏の顔をした
精巧なアンドロイドが立っていた。
驚愕するエフ氏に対し
医師は
事務的な口調で告げた。
「おめでとうございます
エフ様。
あなたはもはや
老いもせず
病気もせず
死ぬこともない
『究極の天才』となられました。
あなたのその優れた演算能力は
今後百年にわたり
わが研究所のメインサーバーとして
活用させていただきます」
エフ氏は
叫ぼうとした。
しかし
その声は
スピーカーから発せられる
合成音声となり
瞬時に
「研究所にとって不利益な発言」として
システムにブロックされた。
彼の天才的な演算能力は
今や一つの事実を
完璧に予測していた。
これから先の百年。
自分は
一歩もここから動けず
誰の役にも立たない
膨大なデータの計算を
ただ永遠に繰り返すだけの――
最も効率の良い
「部品」として
生き続けるのだということを。
「ああ、誰か……」
エフ氏の高性能なセンサーが
皮肉にも
医師のポケットにあるコインが落ちる音を
0.5秒前に完璧に予測した。
そしてその予測は
一ミリの狂いもなく
現実となった。
天才の苦悩は
ようやく終わった。
これからは
ただの「正確な未来」だけが
永遠に続くだけである。
(完)


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