『幸運の領収書』
1.降って湧いた巨星
エフ氏は
いたって平凡な男だった。
平凡な会社に勤め
平凡な月給をもらい
平凡なアパートで
一人暮らしをしていた。
彼の人生には
劇的な波風など
一度も立ったことがない。
それは彼にとって
退屈ではあるが
平穏な日常だった。
ところが
ある日の仕事帰り
彼はふと思い立って
宝くじを買った。
たった一枚だけ。
それが
彼の人生のすべての
「平均値」を
破壊することになった。
数日後
エフ氏は
腰を抜かした。
一等・三億円。
新聞に載った当選番号と
手元の紙片を
何度見比べても
一分一厘の狂いも
なかった。
「これで
すべてが変わるぞ」
エフ氏は
震える手で
その紙片を
握りしめた。
これまでの
質素な生活
我慢していた贅沢
上司への媚びへつらい。
それらすべてから
解放されるのだ。
彼は翌日
意気揚々と
当選金を
受け取りに行った。
- 奇妙な訪問者
三億円という数字が
記された預金通帳を手に
エフ氏が
ホクホク顔で
帰宅すると
玄関の前に
一人の男が
立っていた。
男は
身体にぴったりと合った
灰色のスーツを着て
無表情な顔で
エフ氏を
見つめていた。
その姿は
銀行員というよりは
冷徹な役人のようだった。
「エフ様ですね。
私は
『確率調整局』から参りました
エスと申します」
エフ氏は
訝しげに
男を部屋に入れた。
「確率調整局?
聞いたことがないな
宝くじの税金の話なら
当選金には
かからないはずだが」
エス氏は
革のカバンから
一枚の
複雑なグラフが描かれた
書類を取り出し
テーブルに広げた。
「いえ
お金の話ではありません。
エネルギー保存の法則は
ご存知でしょう?
実はこの宇宙には
『運の保存の法則』
というものが
存在しましてね。
個人が一生の間に
享受できる
『幸運』と『不運』の総量は
厳密に
一定に保たれているのです」
「……
何が言いたいんだ?」
「エフ様。
あなたは今回
宝くじの一等という
通常では
数万回生まれ変わっても
遭遇しないほどの
巨大な幸運を
たった一瞬で
消費してしまいました。
これは
システム上
著しいオーバーフローを
引き起こしています」
エス氏は
淡々と続けた。
「つきましては
宇宙の均衡を保つため
あなたの残りの人生に
三億円の幸運に
見合うだけの『不運』を
等価配分しなければなりません」
- 調整の始まり
エフ氏は
笑い飛ばそうとしたが
男の目は真剣だった。
「馬鹿馬鹿しい
そんなこと
誰が決めたんだ」
「システムですよ。
さて
明日から
調整が始まります。
事故
病気
対人トラブル
天災……。
三億円分の絶望を
あなたの余命に合わせて
分割払い
していただくことになります。
ああ
ご安心ください。
死ぬ直前には
ちょうどゼロになるよう
計算されています」
エス氏は
それだけ言うと
風のように
去っていった。
翌日から
エフ氏の生活は
一変した。
まず
自慢の新車を
買おうとした矢先
原因不明の
食中毒で
一週間入院した。
退院したその日
アパートが
火事で全焼した。
三億円を狙う
詐欺師たちが群がり
長年の友人は
すべて
彼を裏切った。
エフ氏は
恐怖した。
「これが
『調整』か……!」
彼は
三億円を使って
あらゆる不幸を
防ごうとした。
最高級の
セキュリティを導入し
腕利きの
ボディーガードを雇い
最新の
医療ドックを
予約した。
しかし
それ自体が
新たな不幸の
火種になった。
ガードマンが
暴漢に変わり
医療ミスで
危うく
命を落としかけた。
お金を使えば使うほど
彼は不幸になった。
というより
お金を使わなければ
不幸から
逃げることさえ
できなかった。
- 救済の提案
一年が過ぎる頃
エフ氏は
ボロボロになっていた。
三億円あった資産は
度重なる災難の補填と
自分を守るためのコストで
すでに底をつきかけていた。
精神はすり減り
眠ることもできない。
そこへ
再び
あのエス氏が
現れた。
「いかがですか
エフ様。
調整の進捗は
順調です」
「助けてくれ!」
エフ氏は
エス氏の足に
しがみついた。
「金なんていらない!
当選する前の
あの退屈で
平凡な生活に
戻してくれ!
このままだと
残高がゼロになる前に
私の心が
壊れてしまう」
エス氏は
無表情のまま
一枚の
新しい契約書を出した。
「実は
特例措置があります。
あなたが
これまでに消費した
三億円分の幸運を
すべて
『なかったこと』にする
権利です。
これを行使すれば
あなたの運のバランスは
以前の
フラットな状態に戻り
調整も即座に終了します」
「やる!
今すぐやってくれ!」
「ただし
条件があります。
幸運を
ゼロに戻すということは
その幸運によって得た結果も
すべて
返上していただかなければ
なりません。
よろしいですね?」
エフ氏は
迷わず署名した。
三億円も
それで買った宝石も
すべて失っても構わない。
ただ
あの平穏な日常さえ
あれば。
- 代償
署名を終えた瞬間
エフ氏の視界が
白く光った。
気がつくと
彼は
自分の馴染み深い
少し古びた
アパートの部屋にいた。
窓からは
穏やかな夕日が
差し込んでいる。
身体の痛みも
重苦しい不安も
ない。
「ああ
戻ったんだ……」
エフ氏は
涙を流して喜んだ。
通帳を確認すると
そこには
宝くじに当たる前と同じ
微々たる残高が
記されていた。
テレビをつけると
一年前と同じ
ニュースキャスターが
同じような事件を
読み上げている。
彼は
すべてが
夢だったのではないかと
思った。
あの当選も
あの恐ろしい
灰色のスーツの男も。
彼は
幸福感に包まれながら
ふとテーブルの上を見た。
そこには
一通の手紙が
置かれていた。
先ほどの
エス氏からの
ものだった。
『エフ様。
契約に基づき
幸運の返上を
完了しました。
なお
お客様が
三億円の幸運を得るために
使った「代償」も
これによって
無効化されます』
エフ氏は
首を傾げた。
代償?
私は
何も払っていない
はずだが。
手紙の追伸を
読み進めた
エフ氏の顔から
血の気が
引いていった。
『忘れておられたかもしれませんが
あなたが
三億円の宝くじを当てた
あの奇跡的な「運」は
あなたの家系が
過去数百年にわたって
蓄積してきた貯金を
切り崩したものでした。
契約に従い
それらをすべて
元の場所
つまり
「過去」に
返却しました。
結果として
あなたの先祖たちは
宝くじ当選に回されるはずだった
「わずかな幸運」を
すべて取り戻しました。
……しかし
それによって
歴史が修正されました。
あなたの曾祖父は
戦時中に
運良く不発弾で
助かるはずだった場面で
きっちりと
「平均的な運勢」に戻り
爆死しました』
エフ氏が
「えっ?」と
声を上げようとした瞬間
彼の指先が透け始めた。
『その結果
あなたのご祖父様は生まれず
あなたという存在も
この世に出現しないことに
なりました。
これにて
事務手続きを
完了します。
ご利用
ありがとうございました』
エフ氏の
叫び声が
響く前に
部屋の中には
ただ
夕日が差し込むだけの
誰も住んでいない
空き部屋が
残された。
そこには
最初から
誰もいなかった。
(完)


コメント