『無代価社会』
エフ氏はある朝
目覚めとともに
奇妙な感覚に襲われた
枕元に置いてあったはずの
スマートフォンが
跡形もなく
消えていたのだ
それだけではない
タンスの中の
予備の現金も
銀行の通帳も
クレジットカードも
すべてが消えていた
慌てて
窓の外を見ると
街の様子が
一変していた
商店の看板からは
「円」や「価格」という
文字が消え
人々は穏やかな顔で
陳列棚から
好きなものを手に取り
歩いている
「ついに実現したのか」
エフ氏は呟いた
彼はかつて
経済学者として
「通貨の撤廃によるユートピア」を
提唱していた一人だった
どうやら
寝ている間に
世界は画期的な
社会システムへと
移行したらしい
外へ出ると
近所のスーパーマーケットは
「配給所」という
名前に変わっていた
エフ氏は
恐る恐る中に入り
高級なステーキ肉と
上等なワインを
手に取った
レジには
無愛想な店員もおらず
ただセンサーが
品物を読み取るだけだ
支払いは
発生しない
「素晴らしい
これが真の自由だ」
エフ氏は歓喜した
労働の対価として
金を得る必要はなく
ただ社会の一員として
存在していれば
必要なものは
すべて与えられる
かつて
人々を苦しめた
貧困や格差は
この世から
消滅したのだ
一ヶ月が
経過した
エフ氏の生活は
一見すると
極楽そのものだった
広い豪邸に住み
最新の自動走行車を乗り回し
毎日豪華な食事を楽しむ
誰からも請求書は
届かない
働きたい時に
自分の好きな
研究に没頭するだけでいい
しかし
少しずつ
違和感が
芽生え始めた
ある日
エフ氏の乗っていた
自動走行車が故障した
彼は
修理を依頼しようと
整備工の家を
訪ねた
「直してほしいんだが」
「いいですよ
でも
今は気分が乗らない
来月にしてくれませんか」
整備工は
庭で優雅に
ティータイムを
楽しんでいた
エフ氏は
食い下がった
「困るんだ
急ぎの用事がある
謝礼なら……
いや
謝礼は出せないが
何かお返しをするよ」
「お返し?
いりませんよ
欲しいものは
すべて揃っていますから」
整備工は
悪びれる様子もなく
答えた
そうなのだ
この世界では
「お金」がないため
他人を動かす
インセンティブが
存在しない
誰かに何かを
頼もうとしても
相手が
「善意」や
「趣味」で
動いてくれない限り
物事は前に進まないのだ
レストランへ行っても
シェフが
「今日は料理したくない」と
言えば
店は閉まる
道路に穴が空いても
修理担当者が
「今日は詩を書きたい」と
思えば
道は
そのまま放置される
社会の歯車は
目に見えて
ゆっくりと
そして
確実に
止まり始めていた
さらに
数ヶ月が
経った
街は
荒廃し始めていた
ゴミ収集が
行われなくなったため
道端には
異臭を放つ袋が
山積みになっている
電気や水道といった
インフラも
維持管理する人間が
いなくなり
頻繁に止まるようになった
エフ氏は
飢えを感じていた
配給所の棚には
もはや
何も残っていない
生産者が
「苦労して
農作物を作るのが
馬鹿らしくなった」と
畑を放り出して
しまったからだ
人々は再び
物々交換を始めた
しかし
それも長くは
続かなかった
誰もが
「出すもの」を
持っていないからだ
かつて
金持ちだった者も
貧乏だった者も
等しく飢えに
直面していた
そんな
ある日
エフ氏の元に
一人の男が
訪ねてきた
男は
古びたスーツを着て
丁寧に
お辞儀をした
「エフ氏ですね
元経済学者の
政府の
特別委員会から
参りました」
「政府?
まだそんなものが
残っていたのか
助けてくれ
このままでは
餓死してしまう」
男は
薄笑いを浮かべ
一枚の紙を
差し出した
そこには
複雑な数式と
一つの提案が
記されていた
「この無代価社会を
維持するため
新しい『スコア制』を
導入することに
なりました
人々の社会貢献度を
数値化し
その数値の高い者だけが
優先的に食料を得られる
仕組みです」
「それは……
結局
形を変えた
『お金』じゃ
ないか」
エフ氏が
指摘すると
男は首を振った
「いいえ
決定的な違いがあります
お金は他人に
譲渡できましたが
スコアは
本人の行動履歴に
紐付けられ
譲渡も蓄積も
できません
常に
『働き続け貢献し続ける』
ことだけが
生存の条件となります
休むことは
許されません
数値が下がれば
その場で
配給が止まりますから」
エフ氏は絶望した
かつての
資本主義社会では
貯金があれば
休息が取れた
しかしこの
「究極の平等社会」では
死ぬまで
社会の奴隷として
動き続けなければ
ならない
エフ氏は
新しいシステムの下で
清掃員として
働くことになった
街のゴミを拾い
その様子を
監視カメラが
捉える
AIが
彼の働きを評価し
腕に取り付けられた端末の
「生存スコア」が
わずかに上昇する
その数値が
一定ラインを
超えた時だけ
配給機の蓋が開く
ふと
エフ氏は
足元に落ちている
古びた金属片を
見つけた
それは
かつて流通していた
「百円硬貨」だった
泥にまみれ
何の価値もない
ただのニッケル合金だ
エフ氏は
それを拾い上げ
かつての「自由」を
思い出して涙を流した
その時
腕の端末が
警告音を鳴らした
『警告
作業中断を確認
感情の起伏による
生産性低下
スコアを5ポイント
減算します』
配給機の蓋が
ガシャンと
冷たい音を立てて
閉まった
エフ氏は慌てて
硬貨を投げ捨て
必死になって
ゴミを拾い始めた
空はどこまでも
青く
澄み渡っていた
金のない
実に
清潔で残酷な
世界だった
(②へ続く)


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