『価値の再定義』
エフ氏は
一万百円の入った布袋を
抱えたまま
街を歩いていた
硬貨の
ぶつかり合う音が
やけに大きく聞こえる
それは
豊かさの音ではなく
重さだけを主張する
無言の金属音だった
「価値とは
こんなにも重く
無力なものだったか」
エフ氏は呟いた
街は
活気を取り戻しつつ
あった
人々は再び
値札を見て
眉をひそめ
給料日を待ち
将来を不安に
計算している
スコアは消えた
しかし
安心は戻らなかった
ある者は金を持ち
ある者は持たず
ある者は交渉でき
ある者は沈黙した
「結局戻っただけだ」
エフ氏は
そう感じていた
彼は
古い大学の
研究室跡を訪ねた
そこは
今は誰も使っていない
埃をかぶった黒板に
彼はチョークで
文字を書いた
価値とは何か
しばらく
立ち尽くし
彼は
二つ目の言葉を
書き足した
誰が決めるのか
金は
交換を容易にした
スコアは
行動を縛った
では
その
どちらでもない
価値とは何か
エフ氏は
街に出て
人々を観察し始めた
朝
誰よりも早く
店を開けるパン屋
利益は薄い
それでも
毎日
同じ味を守っている
午後
路地裏で
子どもたちに
無料で
勉強を教える
元教師
金は受け取らない
夜
壊れた街灯を
黙って直す
無口な男
誰にも
頼まれていない
彼らに
共通しているのは
報酬ではなかった
承認でもなかった
彼らは
ただ
そうせずにはいられない
だけだった
エフ氏は気づいた
価値とは
交換物ではなく
命の向き・ベクトル
なのだ
どこへ
自分の時間を
差し出すか
どこに
自分の力を流すか
それ自体が
価値なのだ
彼は
小さな
集会を開いた
テーマは一つ
「あなたは
何をせずには
いられないか」
参加者は
最初戸惑った
金になるか
役に立つか
評価されるか
誰もが
そこから
考え始めてしまう
エフ氏は
首を振った
「違う
もっと前だ
それをやらないと
自分が自分で
なくなるものだ」
沈黙の後
一人が口を開いた
「歌です!
誰も聴かなくても
歌ってしまう」
「料理だ!
食わせずには
いられない」
「壊れたものを
直すことだ!
理由はわからない」
それらは
売買に向かない
評価も難しい
だが確かに
人を生かしていた
集会は広がった
通貨も
スコアも
使わない
ただ宣言するだけ
「私はこれをやる人間だ」と
不思議なことに
そこから
助け合いが生まれた
契約ではない
義務でもない
命の向きが
合った者同士が
自然に関わり始めた
それは決して
効率的ではなかった
だが
壊れにくかった
政府は
当初
黙認していた
だが
数字にならない
経済は
管理できない
やがて
視察が入った
「それで
対価は
どうなっている」
エフ氏は答えた
「対価は
生きている
という実感です」
役人は
理解できなかった
理解できないものは
制度にできない
制度にできないものは
支配できない
それでも
人は集まり続けた
金が
消えたわけではない
だが
主役ではなくなった
エフ氏は
黒板に
最後の言葉を書いた
価値とは
交換率ではなく
存在の濃度である
その夜
彼は
久しぶりに
よく眠った
夢の中で
百円硬貨は溶け
数字は消え
ただ
人が人として
立っていた
世界は
相変わらず
不完全だった
だが
どこか
前よりも
人間的だった
(完)


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