神になると言った男 第8章

第八章 神話を疑う学者

 私のデスクには、色褪せた古い時代の宗教書と、最新の行動経済学のレポートが並んでいる。その中心に、一冊のファイルを置く。ラベルには「〈彼〉に関する一考察」とだけ記した。

 同僚の学者たちは、こぞって〈彼〉を新しいパラダイムの預言者として称賛している。だが、私にはどうしてもそうは思えない。この「宗教」がこれほどまでに速く、深く、世界を覆い尽くしたのは、それが高潔だったからではない。その逆だ。それが、あまりにも現代的で、あまりにも「卑俗な欲望」に忠実だったからだ。

「先生、今回のシンポジウムでの発表骨子は?」

  若い助手の手を止め、私は窓の外を見た。街の至る所で青いランプが灯っている。

 「『神の外部化』についてだ」と私は答えた。

 かつて、神は空の上にいた。人々は神の影を恐れ、自らの襟を正した。次に、神は死んだと言われた。人々は自らが神の代わりになろうとし、自由という名の荒野で、自らの判断の重さに耐えきれず自滅した。そして今、〈彼〉が現れた。  〈彼〉が成し遂げたのは、救済ではない。「意志の完全なる外注(アウトソーシング)」だ。

 人々は、自由を愛していると口では言う。だが、その実、自由ほど残酷なものはない。 「何を食べてもいい」「何を信じてもいい」「どう生きてもいい」  その無限の選択肢は、常に「もし間違えたら自分の責任だ」という恐怖とセットになっている。現代人は、その責任の重圧に窒息しかけていた。

 そこに〈彼〉が、アルゴリズムという名の「絶対に間違えない外部知性」を持ち込んだ。

 「君たちが選ぶのではない。システムが最適な解を提示する。君たちはただ、それに同意するだけでいい」

  これほど甘美な誘惑が他にあるだろうか。これは宗教ではない。人類が数千年の歴史の中で積み上げてきた「悩む苦しみ」を、一気にゴミ箱へ捨てるための巨大なシュレッダーだ。

 私は、彼の初期の論文や発言を精査した。驚くべきことに、そこには「神」という言葉も「信仰」という言葉もほとんど出てこない。代わりに並んでいるのは、最適化、均衡、観測、収束……といった冷徹な工学用語ばかりだ。

「彼は、人類を愛していたのでしょうか」

 助手が無邪気に尋ねる。私は自嘲気味に笑った。

 「愛? いや、彼は人類に『絶望』していたのだと思う。人間は放っておけば間違える、傷つけ合う、そして後悔する。その非効率性を、彼は心底嫌悪していた。だから、人間を『正しい部品』として固定するための精巧な歯車を作った」

 だが、この物語の最も皮肉な点はここにある。誰よりも論理的で、誰よりも合理性を求めた〈彼〉本人が、最後にはその「合理性」から逸脱して姿を消したことだ。システムによれば、教祖が表舞台に居続けることが組織の安定には最適だったはずだ。それなのに、彼は逃げた。

 学問的な結論は出ている。この社会は完成した。もはや修正の必要はない。だが、私だけは書き留めておかなければならない。私たちが手に入れたこの平和は、私たちが「人間であることを諦めた」という代償の上に成り立っているということを。

「これは宗教ではない。人類が自らの『弱さ』に降伏した証だ」

 私はファイルの最後の一行を書き加え、ペンを置いた。街の青い光は、今日も論理的に、そしてあまりにも優しく、私を観測し続けている。

(つづく)

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