-予備の合鍵-
五十歳を目前に離婚を決意した彼女は、独り暮らしを始めた。
自由になればせいせいすると思っていたのに、静かすぎる部屋で夜を迎えるたび、胸の奥に冷たい風が吹いた。
ある雨の夜、玄関のチャイムが鳴った。
モニター越しに立っていたのは、別れたはずの夫だった。
「……何か忘れ物?」
ドアを開けると、彼は濡れた折り畳み傘を抱え、小さな封筒を差し出した。
「これ、返しておく。君が家を出る時、置いていった合鍵だ」
受け取ろうとした彼女の手を、彼が優しく、けれど強く握った。
「でも、やっぱり返せない。もし明日、君がまだ独りでいるのが寂しいなら……今度は僕が、君の部屋の『合鍵』になりたいんだ」
一度壊したからこそ分かる、修復できない傷跡さえも愛おしいと思える、二度目の初恋だった。
(完)


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