何年ですか、創業されたのは。
1998年ですね。留学とかワーホリをする方を応援する事業でした。創業時に立ち上げを手伝って、再ジョイントしたのが2000年の30歳の時です。
1998年。じゃあ、結構、留学している人も多かったのかな
多かったですね。何社か留学斡旋事業として大手になっている会社も存在していたので、まだ手薄だったワーキングホリデー市場に目をつけました。当時は海外生活事業と言ってたんですけども、海外での生活を通じて、自分自身を知り、自分を変える。そういう機会を提供することを、付加価値として捉えてやってました。
海外に行ったら人生変わるかもしれない。行ってみたいけど踏ん切りがつかない。そういう人の背中を押してあげる感じですか?
おっしゃるとおりです。
それは、ちなみに一人いくらぐらい?
ピンキリなんですけど(笑)。ワーキングホリデーで1年間行く人の平均単価で言うとオプション料金込みで30万円ぐらいです。
一番高いプランは?
一番高いやつは、それこそ4年制の大学にきちんと留学をするっていう商品で、入学する大学によっては、500万円超えとかっていう商品もありました。授業料も込みですけど。
授業料込みだったら、そんなにボッタクってないですね。
当時の留学型商品の粗利益率って大体20%から
35%ぐらい。一方で、ワーキングホリデーはオリジナル商品なので、ホームステイなどを自社開拓することで、原価率を下げた結果、粗利益率は7割を超えてました。だから、販売価格は抑えているけど、利益率が高い商品と、絶対的な売上金額は高いけれども、利益率はあんまり高くないっていう、この二極化商品の組み合わせで当時はやってましたね。
結構儲かりましたか?
儲かりましたね。
売上はどのくらいだったんですか?
設立5年目で売上高で40億円超、取扱高で120億円くらいまで行ってたと思います。
凄いですね!社員さんは何人ぐらい?
スタッフが当時150人位いました。国内に営業拠点13か所展開して、海外も5カ国13拠点やっていましたので。
それで儲かって宇宙に目覚めた。
いや、まだです。当然そこまでいったら、株式上場というステージが来るわけです。そこにチャレンジをして上場承認というところまで来ました。ところがいろんな出来事が重なって、結果的に上場ができなくなり、いろんなゴタゴタがあって、めちゃめちゃ大変な状況になったわけです。
面倒くさいところですよね、お金も出してもらっているし。
そうです。その時に、同い年の創業社長がいたんですけれども、彼もすごく悩んでいました。
オレンジャーさんが社長だったわけじゃないんですね。
その時はまだ取締役でした。その創業社長といろいろ話をして、最終的に、社長を交代して引き受けることを決めたんです。
オレンジャーさんが、火中の栗を拾った。
なんで、その火中の栗を拾ったのか、今でも謎なんですけれども(笑)。今だったら120%受けないんですけど、でも、拾っちゃったんですよ。
うまく行ってる時だったら、異論はないですけどね。
そうです。でも、会社も好きでしたし、社員もみんな大好きでしたので、そこで1回トップでやってみたいっていう思いは、確かにあったと思います。当時は30代で若かったので、ここでひとつ人生の大勝負をしたかったのではないかと。でも実際やってみるのと、考えていたのでは全然ちがっていました。
では、その会社の株を買い取ったわけですか、オレンジャーさんが。
僕にそんな資産はないですよ。(笑)別の大株主さんに大部分の株式を引き受けていただきました。ただこの大株主さんから「社長であるあなたは、どれぐらい覚悟を決めてやるの?」って言われて「いや、私も同じ値段で買えるだけ買います」って、銀行から個人の信用で借りれるだけのお金を借りて、それで株を買いました。
いくら借りたんですか?
結果的に、億単位のお金を借りました。
プロフィールというか、その辺の話をちょっと聞かせてください。
最初のキャリアは外資系のコンサルティング会社でした。その会社では3年間学ばせていただきました。
すごいですね。株を買って、何%ぐらいなったんですか?
上場寸前まで行っていたんで、株価が高くて、結局数%のシェアしか持てませんでした。
じゃあ、雇われ社長だったんですね。
おっしゃるとおりです!
雇われ社長なのに億単位の借金は重いですね。
いや、めちゃくちゃ重かったです。それにある意味、殿(しんがり)役的なところからスタートするわけですよ、上場に向けて。
もう一回、上場に向けて組み立て直すと。
そう、組み立て直そうとしたんですけれども、新しいやり方を提案しても、なかなかそれが受け入れられない。さらに、社員の9割近くが女性だったのですが、ここぞとばかりにみんな結婚・出産・転職・起業・家の事情など様々な理由で辞めていく。ま、いろいろな理由で社員は去っていきましたが、結局は、僕の社長としての求心力がなかったのだと思います。
どんどん人が抜けていく感じですか?
人が抜けて、会社の体力がなくなっていき、どんどん売上と利益が落ちるわけです。初年度はマイナス3億円ぐらいまで落ち込んだと思います。
利益がですか?
そうです。最終利益がマイナス3億。もともと、利益ベースで5億ぐらい出してる会社がガーンって落ちるわけですね。それで、初めて経営の怖さをリアルに目の当たりにするわけです。
それまでは怖いと思ってなかったのですか?
これまでと同じやり方を踏襲していれば、多少落ちたにしてもある程度は行くだろう、くらいの感覚でした。でも現実は、そんな甘いものではなくて、社員の心がぐらぐら揺れる、心が離れていく、そして主要メンバーが少しずつ抜けていく。売上利益がどんどん下がっていき、預金残高が減っていく。その怖さを経営者として初めて体感するわけです。
なるほど。
そこから戦略を練り直して、もう一回、1から本当の意味で自分なりのスタイルでやろうという覚悟を決めました。ただその頃には、これまで気にもしていなかった資金繰りの問題が出てきまして、月末に払うものが払えなくなってくる。毎日資金繰表を見ながらドキドキしている、みたいな。
銀行から借り入れしなかったんですか?
しました。支払日の前日に、明日の支払ができないっていう状況にまで陥って、最後の最後は銀行さんにギリギリのタイミングで数億円融資してもらって、それで払いました。でもどんどんしんどくなって行って、心が病んでしまって「自分が入っている役員保険でまかなえばいいや」って訳の分かんない回路がつながって、それで首を吊っちゃったんです。
え!まだ早いでしょ!あと5つぐらい手を打ってからでも遅くないですよ。
そうですよね。でも当時は完全に鬱だったと思います。一人ひとりの社員と面談やってる中で、社員は言いたいこと言うじゃないですか。自分は結構タフな方だと思ってたんですけど、だんだんそのストレスが、ジャブのように積み重なってきて。まず、自分が社長としていなくてもいいんじゃないか、そこから自分なんてこの世からいなくていいんじゃないか、自分がどうせいなくなるんだったら何かを土産を残すべきだな、いなくなれば保険金入る「あ、いいじゃん」みたいな形で吊るみたいな…。
自殺って保険金出るんですか?
いや、出ないと思います。(笑)
そうですよね。
だから、相当壊れていたんだと思います。。。
遺書も書いたんですか、じゃあ。
死んだ後はこうして欲しいっていうメモは書きました。それで自宅に革ベルトを吊るして、ぶら下がってみるんですけれども、30秒くらい、意識が徐々に遠のいて行く瞬間に、その革ベルトがパーンって切れるんですよ。その瞬間にズドーンと落とされて、ハッて我に返って、「なんだ、これは?」みたいな。
それでどうなったんですか?
その日は一晩中泣くんですけど、泣いていても仕方ないので翌日普通に会社に行って業務をやりました。その3日後ぐらいに、寝てるときに突然目覚めたんです。でも、目覚めてるんですけれども、いつもと何か感覚が違っていて。なんか軽いんですよ。ふわふわと浮いているような感じで。「え、何だろうこれ」と思ったら、隣にイビキかいてる自分がいるっていう不思議な状態。「え?」って思いますよね。「なんだ、こいつ?」みたいな。
魂がちょっと抜けたわけですね。
そうそう…、幽体離脱してしまって。実を言うと、ここが精神世界というか、いわゆる目に見えない世界の扉が開いた瞬間です。
なんか怪しい話になってきましたね
そうです、ここから始まるんです
<第3回へつづく>
コメント